かねてから私は「カレーで散財してみたい」と思っていました。大好きな料理だからこそ、一度くらい、一度でいいから、羽目をはずした贅沢を味わいたい。スパイス香る法悦に身をゆだねたい(何だそりゃ?)。
しかしながら、カレーは大衆に愛される国民食。学生食堂やドライブインなどでは300円台で食べられます。老舗洋食店や本格インド料理店に行けば3000円台の高級カレーもありますが、逆に3000円台止まりとも言える。レストランでステーキランチなどを食べて生ビールの1杯も飲めば、すぐに3000円です。裾野は果てしなく広大なのに、頂点はさほど高くない…それがカレーなのです。
ところが2002年、その頂点が一気に突き上がりました。東京・銀座の洋食店「資生堂パーラー」本店がリニューアルオープンした際、特別メニューとして1万円のカレーを世に問うたのです。この「伊勢海老とアワビのカレーライス」は話題を呼び、後にレギュラーメニューとなりました。散財にはうってつけ。当「探訪の穴」は価格を明示しない方針ですが、今回だけは例外。いちまんえんです。
この時期、私は「信毎ホームページ大賞2004」でグランプリを受賞し、長野市での授賞式に出席した後で東京に滞在、賞金をいただいたので懐が温まっていました。熊本在住の小市民にとっては、まさに絶好のチャンス。
フランベの炎が恥ずかしい…
授賞式に同行していた妻子とは別行動し(「そんなバカなことには付き合いきれない」と言われました)、予約を入れた私は単身、11階建ての資生堂ビルを訪れました。資生堂パーラーは4、5階。明るい店内は、調度品からカトラリーまで上品なセンスが感じられ、通い慣れている様子の老夫婦がオムライスを食べたりしています。1人客は私だけ。キンチョーしてしまいました。
予約時に料理を注文しているので、私はビールを飲みながら、カレーが出るのを待っていました。やがて、テーブルの脇に、グリルの付いたワゴンが登場。続いて、ウェイターが大きなソテーパンをかかえて現れました。真っ二つに割られた伊勢海老1匹と、殻を外したアワビが1個、バターの匂いとともにジュウジュウ音をたてています。ウェイターは「こちらに香り付けをいたします」と説明し、グリルにソテーパンを据えて、カミュのVSOPを振りかけました。ボワッと上がるオレンジ色の炎。静謐だった空間がわずかにザワめき、隣のテーブルでハンバーグを食べていた母娘らしい二人組は、見て見ぬ振りで苦笑いを浮かべています。私は何故か申し訳ない気分になり、うつむいてしまいました。
フランベの後、ウェイターはナイフを操って、海老の身やアワビを切り分けます。その間、私のテーブルには、4種の薬味(福神漬け、タマネギの和風ピクルス、ラッキョウ、ミカン)やソースポット、レモンスライスが浮かぶフィンガーボウルなどが次々と並べられ…席に着いて約20分後、ようやくカレーにありついたのです。
カレー自体の豪快さ、そして盛り付けの繊細さは、写真をご覧になれば一目瞭然でしょう。一皿がこんなにゴージャスなカレーは、さすがに初めてです。
まず、伊勢海老とアワビだけ食べてみました。アワビは下ごしらえがしてあるらしく、刺身コンニャク並みの軟らかさ(チープな例えで申し訳ありません)。伊勢海老の締まった身には、過不足無く火が通されています。いずれも持ち味が充分に引き出され、これだけで立派な前菜です。次に、カレーをそのまま口に入れました。スパイスの香りを押しのけて、海老の濃厚な風味が広がっていく。舌触りはなめらか、辛さは控え目。クドくなる一歩手前で上品さが保たれている印象です。
ご飯は普通に炊かれたもので、やや塩味の強いカレーに合います。これに伊勢海老のミソやアワビのワタを加えて食べると、海の香りが一段と豊かに。カレーは具材の味を抑えることなく、むしろブーストアップさせています。皿の底にはさいの目に切られたニンジンとジャガイモが隠れており、全体のボリュームも充分でした。
ウェイトレスに聞いてみたところ、伊勢海老とアワビのカレーは1日平均5食は出るそうです。「この不景気に誰が食べるんだ?」と自分を棚に上げて首を傾げる私。支払いを終えてエレベーターに乗り込む時、その日2度目となるフランベの炎が上がっていました。